お金に踊らされた少年時代の話

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たしか、小学2年生の頃だったと思う。僕はにわかに信じられないような状況に遭遇した。

8年の人生しか歩んでいない小学生のモノサシでも、こんなことはおよそあり得ないとすぐに分かる、そんな状況に。

用水路の底の小さな溝に、綺麗に折りたたまれた一万円札が挟まっていた。

こうもキレイに札が溝にハマるなんてことは、およそあり得ない。先人も「亀毛兎角」、「石に花咲く」、「浮気は大罪と主張する石田純一」と言ったものだ。それくらい、あり得ない。

しかし、僕の眼前にその事実は突きつけられているわけで。

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それを見つけたのは下校途中のこと。僕は小学校からわりと遠い場所に住んでいたということもあり、一人で帰路につくことが多かった。

いたいけな少年にとって、家に帰るまでの道のりは一種の冒険だ。とりわけ一人の時ならば、誰に気を遣うこともなく、自由に散策できる。

毎日のように帰り道を変えてみては時に迷い、時に思わぬ発見をする。五感を通して得た経験は自身の糧になり、そして知識となっていく。

決して効率の良い学び方ではないかもしれないけれど、この経験があるからこそ人は大人になり、自らの力で稼ぎを得ることができる。働かざる者食うべからず。少年時代とは3段飛びで言うところのホップ、ステップの段階だ。一人前に稼げる大人になる – すなわちジャンプのための助走なのである。

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さて、よもや埋蔵金を見つけるとは誰が思っただろう。いきなりジャンプだよ。助走もクソもねぇよ。

月500円かそこらのお小遣いでやりくりをしていた当時の僕だ。普段、掌で握りしめることのできる硬貨しか目にしない少年にとって、一万円札などというものは空想上の物質に等しい。

当然のことながら福沢諭吉も架空の人物だと思っていたし、ハローマックに一万円を持って行ったら「この棚のおもちゃ、全部ください」とドヤ顔で言える。まだ汚れを知らない少年は、一万円にはそれほどの価値があるものだと信じていた。

とる。盗るかどうかは別として、まずは取る。月のお小遣いの20倍のお金ということは本能で理解していた。無垢がゆえに、少年は欲に忠実だった。

しかし、場所が問題だ。ブツは用水路の底面の窪みに挟まっている。だけど、その用水路は僕の身長よりもだいぶ深い。

幸いなことに水はほとんど流れていなかったが、セメントで綺麗に側面を舗装されている。降りれそうではあるが登れる保証は無い。

苦悶の表情を浮かべつつ、仄暗い水の底から僕を見つめている諭吉としばしガンをとばしあう。

まじまじと見ていると、まぁ仏頂面である。世界には様々な紙幣があるが、そこに印刷されている偉人たちは全員見事に無表情な気がする。

さながら「わしらのおかげでおまんま食えるんやで?」と見えざる圧をかけているのではないかと。近年のキャッシュレス化の波は、もしかしたらこれが原因なのかもしれない。

とはいえ8歳の少年にそんな雑念がよぎる暇は無く、むしろ彼がこう語りかけてきているようにも思えた。

ー 狭いよう。
肩が挟まって痛いよう。
早く助けておくれよう。

その瞬間、まだ第二次性徴も迎えていない僕の中の男が目覚めた。もう登れなくてもいい。据え膳食わぬはなんとやらだ。今、諭吉を助けなければ男が廃る。

僕はランドセルを投げ捨て、右足を用水路のヘリにかけて滑り落ち、窪みから一気に諭吉を引き抜いた。

ー やった!ついにやった!僕が助けたんだ。

もう大丈夫だよ。さあ、一緒にハローマックに行こう。

意気揚々と諭吉に語りかけながら、綺麗に折りたたまれた彼をあるべき姿に引き戻した。

 ー「こども銀行」

彼の左側に印字された安っぽい明朝体が、僕をあざ笑うようにこっちを見ていた。


……

僕は幾ばくかの時間をかけて用水路から這い上がり、まっすぐ家に帰った。
諭吉はピエロと化し、僕のポケットの中で踊っている。

ほんのりとしめった靴の感触とともに、少年はちょっぴり大人になった。

それからさらに十数年の時が過ぎた。
かつての少年は青年となり、とある言葉に出合う。

「お金は必要だ。けれど、大切じゃない」
     ― インディアンのことわざ

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